中流奥様の還暦ブログ

還暦から4年も過ぎました。2歳上の夫は完全リタイア2年目。完璧な年金生活者になりました。家計のことお金の動きを中心に綴っています。

命日によせて~父との思いで② 長いです。

2014年の暮れに一時帰国した時に実家を訪ねたら、体調を崩した父がいました。

12月半ばのある朝、突然起き上がれなかったそうです。

かかりつけの医者にすぐに行きましたが、はっきりとした原因がわからず。

例年のお正月は我が家で晩御飯を食べるけど、この年は実家で集まりました。

父は寝たり起きたりの生活ぶり。

お医者さんが言うには、この寒さだから年寄りにはこたえるのだろう、と。

暖かくなれば、元気になるだろう、と言われ、80代半ばですから、いろんなことが起こるんだ、と思っていました。

 

私は深刻に考えずに、お正月が終わって、夫の待つ赴任地に戻りました。

その後、1月末に詳しいく原因を探るために検査入院。

私はもう日本にいなかったので電話で話を聞くばかりでしたが、歩行もままならなかったようです。

その病院で前立腺ガンと判明。治療のためにさらに大きな専門病院に転院しました。

この時は東京で大学院生だった次女が、私の代わりに大活躍してくれました。

詳しい説明を一緒に聞いたり、荷物を持ったり。母も80歳でしたからね。

転院先の病院で詳しい症状が判明。

前立腺ガンが腰の骨にも転移。そのため歩行が困難になっていました。

今年いっぱいだろう、と告げられました。

いきなりの告知で私達はびっくりしました。

何でこんなに進むまで、わからなかったんだろう?

検診は受けていたようですが、運悪く発見しずらい場所だったそうです。

ここまで進行しているということは、10年前ぐらいから、あっただろう、と。

こんなに進むまで気がつかなかったことを最初は恨みました。

でも、しばらくして、いやこれはかえって良かったかもしれない、と、思い始めました。

10年も前から父が病気だとわかっていたら、母も私も、これまでのようにのほほんと暮らしていられなかったと思います。

何より、父自身が、旅行も思いのままいけずに、気がふさぎ込むこともあったと思います。

気難しい面が多く出て、一緒に暮らす母も苦労が増えたことでしょう。

知らぬが仏、とはよく言ったものです。

病気とわからなかったので、普通に暮らせていたことを、ありがたく思うようになりました。

もう年齢も年齢だったので、外科的治療もできず、抗がん剤などの内科的治療もせずに、放射線治療のみしました。

この時に医者から詳しい説明を聞いたのでしょうが、今はすっかり抜け落ちています。

放射線治療を終えると、またまた転院しました。

専門病院は急性期の患者さん優先ですからね。

 

3度目の転院先の病院は、我が家にはとても良い病院でした。

 普通、3か月ルールでまた転院となるところでしたが、それを回避できました。

最後まで、8ヶ月くらいお世話になりました。

 

容態が安定した時期に、在宅介護の話も出ました。

でも、もう歩行もできなくなった父をいくらヘルパーさんなどの助けがあるとはいえ、母は一人では看護できないと言いました。

住んでいるマンションもバリアフリーではありません。

車椅子も思うよには入れない玄関です。

 

その病院は在宅介護を推奨していて、医師の往診や訪問看護も充実していましたが、何より看護する母の気持ちを考えてくれて、無理に進めなかったのも良かった点です。

 

一番良かった点は、最後まで父が苦しまなかったこと、痛みがこなかったことです。

それもあってか、かなり弱ってからも、父の腕などに色々な管が付くことはありませんでした。

食は細くなっていきましたが、最後まで自分の口から、食事をとる努力を父はしていました。

私が12月半ばに、看護師さんに、父はあとどれくらいでしょうか?と聞くと、年は越せないかもしれないけど、とても頑張っていますよ、と言ってもらいました。

私が持っていったシュークリームのクリームを舐めたのが、最後でした。

その時には食後のお薬も、看護師さんは、もう無理に飲ませませんでした。

その翌朝に、病院から心肺停止の電話がありました。

 

あくまでも父の場合ですが、自然体で過ごせていたのがありがたかったです。

色々な機械の管に繋がれていませんでした。なんか、老衰に近いようで。

 

2015年は、何回か一時帰国しました。

父にために帰ってきたなんて、とても言えません。ほかの口実を作っていました。

秋になり、いよいよかも、という時がきました。

その時に一時帰国してから、2016年年明けまでずっと日本に滞在して、父と母の側にいました。

 

赴任地で一人残る夫も心配でしたが、快く送り出してくれました。

 

父には積極的に告知はしませんでした。母が望みませんでした。

医師は、薬の説明をする時に、ガンの薬と父に伝えても、父は、聞いているのかいないのか、わかりませんでした。

父は、自分が治るのかとか、余命とか、いっさい家族に聞きませんでした。

私達にも、父と病気の話はしません。大相撲とか、高校野球とか、旅行とかの話題ばかり。

 

毎日のように見舞いに行っていました。

こんなに父と二人で過ごしたのは初めてでした。

 

看護師さんにはいい顔をする父でした。外面が良いんですね。

ナースコールなんて、まず押しません。

私達が世話を焼くのも、嫌がりました。笑っちゃいます、病人扱いするな、と。

好物の甘い物をデパートで買っていくと不機嫌で、スーパーの饅頭で、良いと。

此の期に及んでまで、贅沢を嫌いました。

 

書き出したら長くなりました。

最後まで読んでくださりありがとうございました。